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vol. 8 かけるのは、時と醤油と数と文章 4/4

ふーみん

「こんなはず」なんて、あるわけないでしょ

 気が付けば私は、いわゆる「平凡な大人」になっていた。私がやっていることは、私以外の誰かに代わってもらっても支障をきたさない。月~金まで出勤し、休日は友達とごはんを食べたり映画を観たり、たまっていた家事を片付ける。世間の人が思い浮かべる会社員のフォーマットそのままの、ありきたりな生活。初対面の人との自己紹介も、インパクトのない平凡な自己の概略しか並ばない。こんなふうにはなりたくないと思っていた人物に、いつの間か、なっていた。

 しかし「私という人物」は、概略には表れない、生活の細かな積み重ねによって成り立っている。このコラムには書くほどのことでもない、自己紹介でわざわざ言うまでもない、日々の暮らしの細かなことが私を形成する要素になっている、と最近思うのだ。例えば、毎日煮だす麦茶、電車では本を読むために灯りの下に立つこと、ボールペンの0.7と0.5の使い分け、刺身のツマは全部食べる、など。なにせ細かいから挙げだしたらきりがない、そして他の人にしてみればどうでもいいことばかりだ。でもそういった、連綿たる生活の子細は、確実に積み重なり染みついていく。そしてそれは他人との差異になる。だが「平凡な大人」という大きな括りには取りこぼされてしまう。「平凡」の括りに入らない、いわゆる非凡な人も、この生活の積み重なりが人物像をつくる要素になる。

 そしてつまらない平凡な毎日の繰り返しも、よく目をこらすと変化に富んでいる。しかし目をこらさないと通りすぎてしまう。今日は寿司屋の暖簾が逆だとか、曲がり角の石像に桜の枝がたむけられていたとか、取引先からの郵便の切手がかわいいだとか、すぐに忘れてしまうような些細なこと。でもそれをよく見ることで、少し楽しみが増えたり、他の無関係の些細なことと案外結びついたりする。私が大学で教わったのは、「非凡な、ひとかどの人物になる方法」ではない。そういった見落としがちなものに目を向けるための「見方/考え方」だった。これは大学の4年間ですぐに身に着くようなものではなかったと、今になって思う。卒業当時は身に着いたような気がしていたが、それはうんざりするくらいの生活の繰り返しのなかで発展させていくものなのかもしれない。私はいま、生まれてからだいたい1万日ほどを生きてきた。まだ1万回しか繰り返していない。大学での学びは発展途中で、だからこそ、私は「平凡な毎日の繰り返し」をおもしろ可笑しく生きていく方法を知っている。誠に幸運なことだ。

 日々を生きていく中の、いろいろな出会いや発見によって考えは形を変えていく。絶対不変の結論には一生たどり着かない。だから「一生かかっても返しきれない恩義」なのだ。

 そして私が手に入れた、繰り返しを生きる覚悟とそれを見つめる眼差し。その武器を携えて、「一生かかっても返しきれない恩義」に、一生かけて報いることができればと企んでいる。

 と、ここまで本稿を読んで「そんな考え方があったとは」と思われる方もいるかもしれない。でもゼミの卒業生は「そんなようなことを長谷川先生が言っていたな」と、懐かしむだろう。そうである。このコラムは、先生の鋳型に自分の現在を流し込み、文章としてまとめただけだ。

 古より武道や茶道には「守・破・離」という、習得に至るまでの3つの段階がある。私はまだ「守」(師の教えに従う)の段階である。でもそろそろ「破」(師の教えを自分なりに変形させる)の段階へと進みたいと思っているが、これがなかなか難しい。そしていつの日か「離」(師の教えを離れて自分の道を確立する)に至るのが、当面の野望である。自分の鋳型をつくる、そのためにできることは、鉄を熱する火を絶やさぬことだ。

 さてさて、そろそろ乾燥ひじきもいい具合にもどった。今日のひじき煮は、甘辛にしよう。こうして、生活は連なっていく。

おしまい

かけるのは、時と醤油と数と文章
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