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vol. 8 かけるのは、時と醤油と数と文章 3/4
ふーみん
仕事に求めるものって、達成感でしょ?
「なんか企画とか商品とかを考えるような仕事がしたいんだよね~。忙しくてもやりがいと達成感があって、仕事に生きるかんじとかカッコイイ」という、軽くて甘くてふわふわな将来像を掲げて就職活動を始めた。そして約一年弱にわたり不採用通知をもらい続けた末、やっと一社から内定をもらった。それが今の勤め先である。
そこはいわゆる中小企業で、紙媒体を文字入力や画像スキャンによってデジタルデータにするのが主な業務となっている。大学時代に「アナログとデジタルの違い」などを踏まえたレポートを書いたことはあった。それが今度は、アナログをデジタル化する過程に、まさしく「身をもって」関わることになった。その過程とは、とても地味な作業の連続であった。
例えば、ホッチキスで綴じられた書類をスキャナに通すために、針を手作業で外す。そしてスキャンが終わったら再度綴じ直す。件数は万単位なので、複数人で連日その作業にとりかかる。裁断不可の冊子をスキャンする時も、1ページずつめくってはスキャンの繰り返し。
私は何度か部署異動をしているが、携わっているのは基本的に「繰り返し」の業務が多い。今は事務仕事が主だが、これも請求書の処理や資料作成など、週単位や月単位で決められた範囲の業務の「繰り返し」である。
私はこの地味な「繰り返し」に嫌気がさして、会社を辞めたいと思ったことなら何度だってある。「自分で考えて形にする達成感のある仕事(いわゆる“クリエイティブ系”)をしたい」という就活開始当初の将来像とはあまりに遠く、その隔たりはますます実際の仕事へのやる気をそいだ。
でも最近、その将来像に対する憧れは、もうない。それはあきらめではなく、目の前の連続をしかと見つめようという切り替えだ。大学時代のレポートは、自分の目に見える範囲の「アナログとデジタルの違い」を取り上げていた。でもアナログとデジタルの間には途方もない量の繰り返し作業が介在している。デジタルデータは機械が全てやってくれると思いがちだが、何らかの形で人の手が加わっている。
例えばインターネットや教科書に載っている絵画などの画像は、最初から画像として存在したわけではなく、誰かがカメラで撮影したものだ。「画像」というと均一なもののように感じるが、そのできあがりは撮影者の手腕や使用したカメラの性能に依拠する。しかしそういった個性の部分をなるべく排除して、見る人に必要な情報だけを与えられるように、均一化に努める。それもまた人の手である。
単純な作業でも、違う角度や射程から見つめこるとで、気づかなかった/気づかれないように隠されていたことを発見する。まさに大学で教わっていた「メディア論的なものの見方」ではあるまいか。
単純作業は確かに退屈で、終わったらまた次の作業が待っている。しかし「繰り返し」に腰を据えて初めてわかることもある。明確な達成感を得ることではなく、モヤモヤしながら考えを更新していく環境に、もうしばらく身を置くことにした。現在と向き合う覚悟こそが、働くことへの原動力である。