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vol. 7 平成版・東京ガールズブラボー? ──都内で働き暮らす日々のなかで考える 4/5
サラダ
少人数の社内で時間に追われる日々、そして退職
会社全体では、このようにして制作される旅行雑誌や会報誌などの仕事を常に5-6冊程抱え、並行して行っていた。これに対して従業員数は私を含めて4名だったため、即戦力となることを求められていたように思う。入社半年足らずでメイン担当を任されることになったのも、そのためだった。
作業量が多いときには互いにヘルプを出し合い、助け合ったりもするが、基本的に進め方や諸処での判断はメイン担当個人の責任に委ねられるところが大きい。それゆえ、毎日とても贅沢なことをさせてもらっているという実感はある一方で、任せられている分できない部分はビシバシと指摘を受ける毎日で、それが正直かなりきつかった。
ほぼ毎日、朝10時30分から夜0時30分の終電ギリギリまで働く生活だった。メインで担当を持つようになってからは、土日も地図落としや原稿書きなど、家でできる仕事は家に持ち帰ってやったり、FAXや電話など外部との連絡を必要とする仕事は休日出勤して行った。
とにかく、きちんとした精度で締め切りに間に合わすことができるのなら、費やす時間や、やり方がどうであっても文句は言われない。逆に週5勤務でやっても間に合わなければ、土日を返上してでも終わらせるのがルールである。そんなわけで、取材や入稿作業をしていた2カ月ほどは、ほぼ休みがない状態だった。
そうして、私は10月下旬の初校の赤字入れの工程で、奥さんに作業を引き継ぐことになった。スケジュールは後ろに尾を引いてパツパツの状況で、赤字を入れるスピードと精度が締め切りまでに間に合わないと社長が判断したからだった。
このとき社長に、これからまだ仕事を続けていけそうかと聞かれたが、私はそこで「はい」と答えることができなかった。そして退職することになった。人が足りない状況で即戦力として雇われたものの、それについていけるだけの力を私が持っていなかったと言えばそうだろう。8カ月で辞めるに至ってしまった自分を情けなくも思った。
ただ、もう少し余裕のある状況で少しずつ仕事を覚えさせてもらうことができたなら、作業自体は面白かったので続けたかったとも思う。しかし、本を作るためには限られた時間と予算、そしてそこから捻出される人件費があり、そう甘いことは言っていられないのだった。これが「仕事にする」ということなのか……と厳しい現実を知った。
仕事ってこういうことなのか、と理解する
8カ月で辞めた前職の仕事だったが、ここでの経験を通じて、仕事の見方が少し変わったように思う。
そう感じたのは、退職することが決まり、メイン担当でやっていた茨城エリアの旅行雑誌が校了を迎えるころ、奥さんと版元の担当者とのメールのやり取りを読んだときだった。
版元の担当者から送られてきたメールには、忙しないスケジュールに付き合って進行してくれて助かったこと、そして経験豊富な奥さんの冷静な対応や、新任の私のパワーに助けてもらったという感謝の言葉が記されていた。
奥さんはこのメールに対し、切羽詰まった状況下でも通常のクオリティが保てるように最大限努力したが、その試みが成功していることを祈っていると返信していた。
このやり取りを読んだときに、ああ、仕事ってこういうことなのかと少し理解した気がした。奥さんは私から仕事を引き継いだ後、休日を返上して時間の許す限り色校を読み返し、できる限りベストな状態で版元に戻すことをしていた。その姿を見ていてからなおのこと、奥さんの返信したメールにあった「最大限努力した」という言葉には説得力があった。
仕事には限られた期日がある。その縛りのなかで、いかに良いものを作れるか、いかにベストに近い状態に近づけるか、そういったことが大事なのだろうと感じた。毎回毎回が勝負なのだ。
また、その後社長からは、校了後に版元の人から改めて何度もお礼を言われていること、仕事というのは何かひとつ頼まれたことをやり遂げると、これだけのことを言ってもらえるものだということを話された。そのとき初めて、今まで身を粉にしながら費やしてきた時間が少し報われたような気がした。
このような奥さんや社長の姿を見ていて、仕事をしていく上で大きなモチベーションとなるのは、第一に「自分のため」というよりは、自分以外の他者との関係のなかで形成されるやりがいのようなものであるのだと感じた。