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2014.06.12.
vol. 1 ゼミは続くよどこまでも

ヤダカオリ

明治学院大学文学部芸術学科2006年度入学、長谷川ゼミ1期生。
卒業論文のテーマは『コスプレ30年史 1970-2010』。
学部卒業後は明治学院大学大学院文学研究科芸術学専攻へと進学し、
修士論文『コスプレが生成する「場」──コスプレイベントのエスノグラフィ―』を執筆。
現在は大学事務勤務。

 コラムトップバッター

 トップバッターというのは、任されて嬉しい反面、後続に恥じないような初陣を切らねばならないという緊張感がある。しかし、そもそも私はこれまで芸術メディア系列1期生、長谷川ゼミ1期生と初めてづくしなのであった。何を今更、というやつである。私が書けることを私の書けることばで綴るしかない。

 

 長谷川ゼミに入って

 さて、私がトップバッターとして選んでいただけたのは、芸術メディア系列1期生、そして長谷川ゼミ1期生でゼミ長を任せて頂いたからだろう。長谷川ゼミは、私の学生時代に築いたコミュニティの中で3年間の苦楽を共にしたサークルの同期と同じかそれ以上の財産である。それは、思い返せばゼミ結成時よりも前から始まっていた。2年時の『自己紹介ツール作り』、3年時の『本ではない本作り』、芸術メディア系列生必修の『夏期集中講義』。すべてグループワークの課題であったが、どれもメンバーに恵まれ思い出深いものとなった。そして、私はそのメンバーとまるで示し合わせたかの様に長谷川ゼミ初顔合わせで再会したのである。円形になったテーブル、全員の顔を見て、ああ、これは絶対に楽しいゼミになるな、と素直にそう思えたことを今でも覚えている。三者三様個性が強く、決められたゼミの授業時間後も長谷川先生の個人研究室に入り浸っては真面目な話もくだらない話もたくさんした。大学4年になってようやく、ひとと話すということについてきちんと考えるようになった。

 

 卒論でコスプレを扱う

 卒業論文では、1年間題材として取り扱うのだから自分に切実なテーマを選ぶように、という先生の言葉から、即座にアニメや漫画作品の登場人物に扮するコスプレを取り上げることに決めた。ほとんど誰にも言っていない自分の趣味だったが、メンバーを見てこれは逆に知ってもらって意見が聞きたいと思えたのである。当時のわたしは人前で扮装をし、ポーズを決めた写真を撮り、それをSNSなどで全世界に公開するという行為を自身で楽しみながらも、いったい何故こんな不可思議なことをやるのか気になって仕方がなかったのだ。趣味とはいえ、自分がやっていることがなんなのかわからないこと程、気持ちが悪いことはない。また、複数人で楽しむことが多いコスプレには密接なコミュニティあったため、そこで交わされる言葉や価値観に対して整理をつけたいという気持ちがあった。しかし、主観ばかりではなにも進まない。紆余曲折あったものの、対象との距離感をとるためにも、わたしは卒論執筆の1年間という時間をコスプレの歴史編纂に充てることにした。それは、奇しくもCool Japan[*1]の文脈で日本のアニメやコスプレが「日本固有の文化」として取り上げられ、それを手放しに喜ぶ所謂オタクと呼ばれる人々を目の当たりにしながらの作業となった(この辺りの詳細は、当時の筆者は雑多な感想しか述べていないのだが、2009年長谷川ゼミHP内の日本コスプレサミットのレポート[*2]をあわせて読んで欲しい)。

 

 そして修論へ…

 アニメや漫画のコスプレがどのように広まっていったかを丁寧におえば、いかに日本固有のものでも日本独自のものでもないかがわかる。しかし、もちろんそんな事実はCool Japanの文脈では説明されない。では、コスプレを行う人々やその周辺の人々にとって「コスプレ」とは、どういうものであるべきだとされているのだろうか。こうして、コスプレの歴史編纂だけでは補えない部分を、コスプレが行われているイベントでのフィールドワークによって考察するということを修士論文で行うこととなった。いまここで、修士論文の結果や反省点を長々と書くことは省略とするが、書き終えて感じたことは卒論のときと同じ、扱っていたテーマはコスプレだけれど、コスプレだけにとどまらない問題でもあり、それを扱うには自分が圧倒的に背景的な知識が不足しているということだった。これまでのどんな課題も卒論も修論も、終わったあとに100%の満足感はない。それは、漠然ともっとやれたというような話ではなく、論文を書きながらも感じる知識や力量の不足さからきている。きっと、この繰り返しなのだろう。

 

 卒業後も続く

 修士課程修了後、仕事をしながらでもその不足と向き合う方法として、同じ長谷川ゼミの後輩数人とたまに集まって、勉強会をおこなっている。勉強会といってもけっして堅苦しいものではない。その実体は、近況報告をかねた少しだけ真面目なお茶会だ。参加者の持ち寄るテーマは様々だが、どれも本人の生活に密接に結びついている。卒論のときと同じ、自分にしか書けない、自分にとって切実なテーマだ。

 私は、家からほど近い場所にある元米軍基地兼自衛隊基地とその周辺施設から戦後の日本人のものの考え方について少しでも近づけないか、自分なりに考えている最中である。アメリカに強く憧れていた戦後日本が、アメリカニゼーションされてきたという歴史的背景をきちんとふまえなければCool Japanについても語れないと考えているからだ。

 社会人として仕事をしている毎日。行き帰りの電車のなかで、職場のひとや家族とのたわいもない雑談のなかで、ふとこころにひっかかるものがある。これはどういうことだろう、どういうふうにできているのだろう。何も考えぬまま、このまま流されてよいのだろうか。そんな、見えない糸のようなひっかかりをたどたどしくてもいいから、ほどいていって、考える。そんな時間が、必要だ。そして、それはなかなか自分ひとりではできないことでもある。長谷川ゼミのOBOGなら誰でもわかると思うが、それは、卒論がけっして一人では書けないことと同じだ。そして、なにも所謂勉学的な小難しいことだけではなく、日々の出来事について、きちんと自分の目で見て考えるということこそ、長谷川ゼミで全員が等しく学んだことなのではないかと思う。学びたい。考えたい。そう思えれば、いつでもどんな格好でも学生みたいなものだ。あとは、それを楽しめる友人がいれば完璧だ。そして、さいわいにも私はそんな友人に学生時代に出会えたのである。

●──註

[*1] Cool Japanとは、経済産業省が行うクールジャパン戦略において推奨すべきものをさすことばである。イギリスのクール・ブリタニアを真似るかたちで「日本の戦略産業分野である文化産業(=クリエイティブ産業:デザイン、アニメ、ファッション、映画など)の海外進出促進、国内外への発信や人材育成等の政府横断的施策の推進」であり、国内の製造業が傾くのにあわせて2000年代から推し進められている政策の一つ。

[*2] http://www1.meijigakuin.ac.jp/~hhsemi09/wcs/wcs.html

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