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本を解体してみた <モノとしての本>の次元

北山隆之(明治学院大学大学院文学研究科芸術学専攻メディア系列博士前期課程2年)


 もくじ


 はじめに――自己紹介

 みなさまはじめまして。私は長谷川先生のもとで院生として研究活動を行っている、北山隆之と申します。出版の研究を専門としてやっており、特に「自費出版」をテーマとしています。5歳のころに、臼井儀人『クレヨンしんちゃん』という漫画を親に与えてもらっていらい、私は漫画や小説などを好んで読んできました。このような趣向があったため、学部で卒業論文を書く時に、漫画や小説などを取り扱う出版という領域を研究の土台としました。そして現在は、そのなかでも特に「自費出版」をテーマとして日々研究に取り組ませてもらっています。
 今回はこの場をお借りして、講義のなかで行った課題の成果を報告させてもらいます。その課題は、本を解体して本がどのような構造になっているかを知るというものです。

 本を解体する

 「本を解体してみなさい。切るんじゃなく、手でばらす。」

 出版について研究してはいるが、私は本づくりがどのようになされているかについてまるで知識がなかった。そんな私に、指導教授である長谷川先生はひとつの課題をくれた。それが、この本の解体レポートだ。本はある工程を通して本となり、私たちの手元に届いている。いわば完成形として私たちの前にあるその本を、ひとつひとつ解体することで、本がどのような構造になっているかを知る。この目的のもと、私はこの課題に取り組むことになった。そして冒頭で記したように、先生は注意点を述べた。あくまで「ばらす」のであって、「切る」のではない。「ばらす」ことによって、本ができる過程を逆にたどっていくことができる。
 具体的には、書店で購入した一冊の本を手でひとつひとつばらしていく作業を行った。これを行ったことで、本がどのようにできているかが分かった。それに加えてみえたものがある。それが「モノとしての本」だ。以下に解体工程を、画像を用いながら説明していく。そのあとにあとがきとして、私がみた「モノとしての本」について記す。
 解体に使わせてもらった本は、福永三重子『尾崎豊 あなたとの約束 シェリーたちへの愛』(実業之日本社、1993年)だ。尾崎豊への愛が込められたエッセイである。これを解体するのは心苦しかったが、しっかり一読させてもらったうえで解体させてもらった。解体工程にうつる前に、著者の方ならびにこの本の製作に携わった方々へ、お詫び申し上げます。


 解体工程

 ①解体する本は、福永三重子『尾崎豊 あなたとの約束 シェリーたちへの愛』(実業之日本社、1993年)

   


 ②まずはカバーを外す。右手にあるのがカバーだ。本体である左の本を保護するものとして、つけられている。

   


 ③次に見返しの部分をつなぎあわせている紙をはがす。一、二枚目の画像では既にはがした状態だ。そして三枚目の画像がはがした紙だ。ページの束がばらばらにならないために、しっかりとのり付けされていた。

   

   

   

   

  この時点で、本の背の部分と表表紙、裏表紙にあたるものと、ページの束とは切り離された。

 ④次に栞ひもと、ページの束とカバーをくっつけていたものをはがす。画像の右手にあるのがページの束で、中央にあるのが栞ひもだ。左手にあるのが、ページの束と③の四枚目の画像にあるものをくっつけていたものだ。すべてははがしきれなかったが、粘着力が非常に強いのりが、固形化したようなものだった。

   

  この時点で、ページの束は天からみると次のようになっている。

   

  いくらかの紙の束が、いくつもつなぎ合わされている状態だ。

 ⑤ページの束をばらす。最初に扉と、扉の次に続くカラーページを外す。

   

  右側が扉で、左側がカラーページだ。この部分は、他の紙と材質が違っていた。扉は、他のページ群に比べると厚みがあり材質がよさそうな紙だった。カラーページは、ツルツルとした材質の紙が使われていた。

 ⑥残りのページの束をばらばらにする。うまくばらせないところもあったが、大体16ページごとにひとつの紙の束になっていた。

   

  そして、それらのページをさらに一枚ごとに分けていく。すると、1枚の紙に見開き2ページ分が収まっていた。

   


 ⑦全体は次のようになった。画像の下の部分にあるのが、⑤、⑥で扱ったページの束だったもの。右上にあるのが、③で扱った、本の背の部分と表表紙、裏表紙にあたるもの。そして、ページの束とそれらをくっつけていたものだ。左上にあるのが、②で扱ったカバーだ。そしてその下にあるのが、④で扱った栞ひもと、のりのような粘着剤だ。

   



 

 「モノとしての本」、そして解体をするということ

 解体をしたことで、私は本がどのような構造になっているかを知ることができた。また、それに加えて私が発見したのは「モノとしての本」という次元だった。
 私が思うに、本には二つの次元がある。ひとつは、読みものとしての本で、そこに書かれている内容うんぬんだけを見るのがこの次元だ。もうひとつの次元が、後に記していく「モノとしての本」の次元だ。そこでは、本を物質として見る。
 1枚の「扉」と呼ばれる材質の異なった紙、2枚のカラ―印刷が施された紙、それに105枚の白黒印刷の紙を足したものを綴じて、それにカバーや栞ひもなどをつけて出来たものが、今回扱ったこの一冊の本となっていた。細部に違いはあれど、ほとんどの本はこのような今回解体した本と似た構造になっていると思う。ただ私をはじめ、多くの人は本と接したときに、1冊という単位でしか本をみないだろう。そして本について意見を交わしたりする際に言及されるのは、大抵の場合その本の内容についてだ。内容というのは、紙に印刷された言語や画像のことだ。本と接したときにその内容をみるならば、たとえば今回解体したこの本だと「いや尾崎の考えているシェリーってこういうことじゃないでしょ!」というような感想が出てくるかもしれない。これは本が出来あがった1冊という次元で提供されているため当たり前のことだし、私もほとんどの場合において本とそのように接してきた。これがひとつめの、読みものとしての本の次元だ。
 しかし「モノとしての本」という次元で本に接するとどうだろうか。書店で本を手に取ったときに、「うーん。この扉の紙の材質はもっと違うやつを使った方がよかったんじゃないかな~。」という感想や、「おお。この本はだいぶ厚みがあるから、いい枕になるぞ。」という感想がでてくるだろう。本を手にとって、その内容だけでなく紙の材質や本の形などに言及する感想を持つ人がいたら、その人は1冊という次元はもちろん、加えて「107枚の紙の束」という次元でも本をみることができている。そしてその見方が、「モノとしての本」という次元だ。
 しかし読みものとして本に接することは日常のなかで多くあっても、「モノとしての本」の次元に接することはそんなにないだろう。少なくとも私の場合は、押し花の重りとして本を使おうと思う時や、図書館で大量に本を借りてカバンに詰め込んでその重さに辟易する時くらいだ。恐らく多くの人が、たいていの場合読みものとして本に接していると思う。
 では、頻繁に「モノとしての本」という見方をしている人はどういった人だろうかと考えたときに、真っ先に思い当ったのは、印刷屋や出版社で勤務する出版業界で働く人たちだ。時代は今電子書籍化に向けて動いているようだが、出版業界で働く人たちにとって、長い間本は「モノ」であった。そこでは、扉、小口、柱など、立体的な構造を意識した名前が本の箇所につけられているように、本はあくまで立体物である「モノ」として捉えられてきた。しかし電子書籍という本は、あくまでディスプレイに映し出される平面的なものである。そこでは前述したように、私たちが本と普段接するときに感じるような、「内容」という次元においてのみ本は捉えられている。あえて送り手受け手という二項区分を用いるならば、受け手である読者のほとんどにとって、本というのはそのままそこに書かれている内容を意味する。送り手である出版業界の人たちからすれば、本とはその内容だけを意味するものではない。つまり、受け手側はひとつめの次元である読みものとしてのみ本を捉えているが、送り手側はそれに加えて「モノとしての本」という次元でも本を捉えている。ここのズレがあるからこそ、一部の出版業界の人たちは「モノとしての本」という見方を訴えて、その価値を高めようとするのかもしれない。例えば本の装丁の仕事をする人で「本は物である」として、本の物質性を伝えようとする人はいくらかいる。彼らはそれまでの本作りの経験から、本というものは内容だけで語れるものではないと考えているのだろう。
 今回の本の解体をとおして、私は「モノとしての本」という次元を知った。それは本に書かれた内容を見るだけでなく、本というものを紙の束であり一冊一冊形も材質も違う物質であるとする見方だ。これは特に目新しい見方でも言葉でもない。「モノの本」という次元と言葉は、今回のように本を解体するまでもなく、電子書籍という本の新しい形が生まれて以来、急速に相対化されて、使われてきたものだ。そして本がモノであるということは、普段は見えにくいものであるが、本にずっと備わってきた側面だ。その事実は、身の回りをみても分かる。たとえば、本棚、ブックカバー、栞の存在がそれを示している。通学用のランドセルも、教科書などの本がモノであったことが、あの形になったことにいくらか影響されているだろう。産業という観点からみると、製紙所や製本所も「モノとしての本」があったことがその発展に関わっている。
 あるものを解体するということは、その構造を知るだけでなく、このように解体したものに対して新しい視点を与えてくれる。解体をしてみる前は、「モノとしての本」という次元については特に注意して意識したことはなかった。今回のケースでは、本が解体の対象で、得られた新しい視点が「モノとしての本」だった。そして、解体するものに対して作り手側の視点に立ってみることで、その構造を知ることもできた。本の構造を知り「モノとしての本」という新しい視点を得るという経験ができたことが、私が今回の解体から得た収穫だ。